亀の井別荘


思い出の宿~亀の井別荘~

★金鱗湖のほとりの緑の別荘

サービスの名の下に、食事や寝床の準備などで度々客室へスタッフが訪れる旅館のあり方は、ともすればお客さまにとって自分の懐かしい“家”あるいは“別荘”であってほしいくつろぎの空間を邪魔してしまうことがあるのではないか。それであれば「2食1泊付で何も不便がないようにおもてなしします」という旅館スタイルに加え、「御用があれば控えておりますのでお声かけください」という別荘スタイルもあってよい。
滞在する客人が、自分からのれんをくぐってカウンターに座り、好きなものを好きな量だけ頼んで食事を楽しむ。そんなこぢんまりとした食事処が庭の中にいくつか点在して、部屋でも庭でも自由に過ごしていただけることが今の中谷さんの夢なのだそうだ。
部屋を自分の別荘と見立て、そこから少しよそ行きの気分で庭のお店に出かけていくという過ごし方はとても自由で楽しく思える。そういえば、亀の井別荘のバー「山猫」もまた、庭を通ってでないとたどり着けないつくりになっている。温泉につかり、食事をいただいた後に風に吹かれながら歩く「山猫」までの道は、心地よく、なにか懐かしい散歩道にいるような気分になる。便利ではないかもしれないが、一見不便で無駄に思えるような時間や空間が風情や楽しさにつながっていることを教えられた。

★目指すのは“あらまほしき日常”~桃源郷の由布院~

庭の片隅にもあらまほしき日常の欠片が・・・ ■庭の片隅にもあらまほしき日常の欠片が・・・

亀の井別荘のコンセプトは「あらまほしき日常」だという。
本来誰もが心の中に憧れの日常を抱き、それを目指して日常を生きている。その、心にある「自分の日常がこうだったらいいな」というものが「そうそう、こういうことだった」と思い出してもらえるような場所でありたい、という想いがこの言葉に込められている。
柔らかな緑に囲まれた敷地の中で鳥や虫の声を聞きながら、昔ながらの日本式の客室でまどろんでいると、祖父の家で過ごした夏休みを思い出す。気が向いたらゆったりと温泉に浸かり、あたたかみのある談話室で、静かに流れるクラシック音楽に耳を傾けながら読書を楽しむ。散歩がてら庭を横切り、土産物屋の「鍵屋」や茶房「天井棧敷」(夜はバー「山猫」として営業)へ歩くのもよい。この宿には確かにこうあってほしい心の中の日常が待っている。
庭から聞こえる鳥や虫の声、風の音、談話室のSPレコード、天井棧敷に流れるグレゴリオ聖歌・・・。亀の井別荘の日常にはいつも音がやわらかく寄り添う。

建物にせよ、人間にせよこの森の中の木々よりも寿命が長いことはないのだから、この庭の風情を保つことが最も大切なことだと思うようになったのは、父親の健太郎さんが「最終的にはこの木々くらいじゃないかな、守るべきものは」と言うのを聞いたときだったという。「父の言葉によって自分の役割に気が付きました。それから肩の荷、力みが抜けました」。約100年続く地域を代表する宿、まちづくりのカリスマと言われた父親からそれを継ぐということ、そんなプレッシャーのようなものは穏やかな話しぶりからはあまり窺えないが、やはり想いを継ぐと言うことの重みは相当なものであったのだろうと感じられた。

庭に守られたこともあったのかもしれない。2016年4月の震災の際、亀の井別荘は設備や什器の被害はあったが建物は残り、ひとりのけが人も出ることがなかった。

★小さな灯り。そして“ガーデンパーティ”

震災からわずか2日で宿は営業を再開した。
「普段どおりここに灯りが灯っていることが大切だと思った」と中谷さんは語る。
「宿の中もスタッフの家もぐちゃぐちゃだった」という中で、それでも無理やり開けたのは、目標がほしかったからだったという。「お客さまがいらっしゃるような状況ではないことも分かっていましたが、開いている、ただそれだけのことがきっとどなたかの励みになるだろうと思いましたし、スタッフにとってもやらないといけないことがあるということが、きっと救いになるだろうと思いました。というよりも僕にはそれしか思いつかなかった」。
この小さな由布院というまちにおいて、亀の井別荘は決して小さくない規模の宿だ。そこにいつもどおり灯りがついていることがとても大事なことだと思ったという言葉に、このまちで生き、このまちを象徴する宿としての責任と矜持が感じられる。
真っ暗な峠道を一人で歩くとき、遠くに見える小さなろうそくの灯りであったとしても、それがどれほどの安心を与えてくれるだろう。ご心配くださるお客さま、関わりのある全ての人々のささやかな希望でありたい、亀の井別荘の小さな灯りはそんな強い想いで灯されたのだった。

★思い出の由布院~どこにでもあって、ここにしかないもの~

誰もがたくさんの思い出とともに生きています。その思い出の一つに加えていただける私たちでありたい。ただそれだけなんです、と語る中谷さん。由布院の原風景と同じくあたたかな思い出を生み出す場所であることを願って「どこにでもあるもの。でも、ここにしかないもの」を目指しているのだという。
亀の井別荘を訪れる人はどこにでもある日常に癒され、振り返ったときにそれはそこにしかない理想の日常だったのだと気づくのだろう。そしてまたその思い出に逢うために金鱗湖のほとりの荘園に足を運びたくなるのだ。