中里太郎右衛門陶房

唐津焼の過去と未来
~革新の連鎖が伝統を紡ぐ~

☆古人に愛され現代に生き続ける、多彩で素朴な“唐津焼”

出土した約400年前の古唐津 ■出土した約400年前の古唐津
現代の絵唐津の作品 ■現代の絵唐津の作品

長い歴史の中で受け継がれてきた伝統の技と、その時代を生きた匠の想いが交差し、今もなお進化を続ける工芸品。「蹴ろくろ」や「登り窯」、「土灰釉(どばいゆう)(木炭が基礎となった釉薬)」といった技術を駆使した陶芸界の原点に位置し、多彩さと素朴さがひときわ目を引く焼物――唐津焼。

諸説あるが、その歴史は日本最古の登り窯といわれる「岸岳古窯跡(きしだけこようせき)(佐賀県唐津市)」に見られるように、豊臣秀吉による「文禄(ぶんろく)・慶長役(けいちょうのえき)」で渡来した陶工たちが焼成技術を広める前から、この地に根付いていたと言われている。また、古くより茶の湯の世界では、「一井戸、二楽、三唐津」と多くの茶人に愛されただけでなく、焼物を総称する言葉として東日本一帯で広まった「瀬戸物(せともの)」に対して、西日本では「唐津物(からつもん)」と呼ばれたほど、唐津焼は日本の歴史に多大な影響を与えた焼物と言えるだろう。

☆中里家が紡ぐ400有余年のあゆみ

中里太郎右衛門陶房 ■中里太郎右衛門陶房

佐賀県唐津市の中心街を唐津湾に向けて穏やかに流れる町田川から一本入った通り沿いに、400有余年続く伝統の香りが残る。江戸時代には唐津藩の御用窯として、将軍家、高家へ献上品を納め、現在まで窯の火を絶やすことなく伝統を守り続けている唐津焼の名窯、「中里太郎右衛門陶房」だ。

御茶盌窯跡(おちゃわんがまあと)(1734年から1916年まで使用していた登り窯) ■御茶盌窯跡(おちゃわんがまあと)(1734年から1916年まで使用していた登り窯)
歴代の当主の作品も展示されている ■歴代の当主の作品も展示されている
14代中里太郎右衛門氏 ■14代中里太郎右衛門氏
庭先にある11代が制作したダルマの置物 ■庭先にある11代が制作したダルマの置物

その歴史のあゆみは1596年頃、中里家初代の又七(またひち)が佐賀県伊万里に田代窯を開窯したことにはじまるといわれる。前述の通り、幕末までは唐津藩の御用窯として、李朝や明朝の技法を取り入れながら、献上唐津と称される美しい作品を納め続けた。明治維新後、民窯となった中里家は現代では珍しい陶器の置物などを中心に、時代のニーズにあわせた作品づくりを続け、窯の火を守り続けたのである。「庭先に置いてあるダルマの置物は11代の作品なんです。」と教えてくれたのは、現在の当主、14代中里太郎右衛門氏(以下、「14代」)だ。14代の祖父にあたる、12代中里太郎右衛門氏[1895年~1985年](後に中里無庵(むあん)と改名)は、古窯址や陶片資料の研究に励み、長く途絶えていた古唐津の伝統を復興することに成功し、重要無形文化財「唐津焼」の保持者(人間国宝)に認定された人物である。「祖父は頑固一徹といった性格でしたが、晩年の作品は素朴で飄々(ひょうひょう)とした馴染みやすいものに変わっていきましたね」と14代は懐かしそうに語った。

12代中里太郎右衛門氏 ■12代中里太郎右衛門氏
『中里無庵作 朝鮮唐津耳付水指』 ■『中里無庵作 朝鮮唐津耳付水指』

対して、芸術大学で博士号を取得し、陶芸学者と称された13代中里太郎右衛門氏[1923年~2009年](後に中里逢庵(ほうあん)と改名)は、世界中の焼物を研究し、古唐津の伝統技法を踏まえながら新知の技法を採り入れ、唐津焼の概念を覆し、新たな境地を開拓した。ペルシャの焼物に影響を受けたといわれる、『叩き唐津翡翠搔落し魚文壷(たたきからつひすいかきおとしぎょもんつぼ)』は、自ら開発した「翡翠」という青い釉薬に、伝統的な搔落とし技法で魚の絵を描いた、芸術性に優れた作品である。「『温故知新』という言葉が好きだった父は、祖父がつくった土台の上で、芸術性を高めることに注力していました」と14代。中里家に脈々と受け継がれる匠の心は、様々な形で唐津焼の発展に貢献しているのだった。

13代中里太郎右衛門氏 ■13代中里太郎右衛門氏
『叩き唐津翡翠搔落し魚文壷』 ■『叩き唐津翡翠搔落し魚文壷』

☆伝統の継承と自分らしさの表現

次々と同じ大きさの茶碗ができていく ■次々と同じ大きさの茶碗ができていく
約200年使用しているという蹴ろくろ ■約200年使用しているという蹴ろくろ

不規則なリズムを刻む蹴ろくろの回転音と、茶色の土が練り上げられる音がアトリエに響き渡る。現在は14代が茶碗をつくるときのみ使用するというアトリエに、測ってもいないのに均一な大きさに仕上がる茶碗が次々と並んでいく。「蹴ろくろの場合は、回転が均一ではないので、自然なゆがみがでて、柔らかい感じに仕上がるんです。」と14代は作陶しながら語ってくれた。定規すら当てず、目測で形づくる原始的な技法ながらも、5㎜ぐらいの誤差はあると笑う14代の熟練の技に思わず目を奪われるのだった。

中里太郎右衛門陶房の窯元の作品には三ツ星マークが刻まれている ■中里太郎右衛門陶房の窯元の作品には三ツ星マークが刻まれている

中里太郎右衛門陶房のパンフレットの中のある文章が目にとまった。「わたくしたち陶工は作品の八割ほどをつくりあげ未完成の段階で皆様のお手許に差し上げます。」その真意を14代はこう語った。「八割というのは、我々が手を抜いて不良品をお渡ししているというわけではなく、完成形の残り二割はお客さまに育てていただきたいと願っています。」唐津焼は磁器と異なり、使えば使うほど色見や風合いが変化していくのである。これも土ものならではの味わいで、自分の器を大切に育てるという楽しさも唐津焼の魅力のひとつなのだ。

『唐津白地黒搔落し葉文壷』 ■『唐津白地黒搔落し葉文壷』

古唐津の原点を探し、伝統を掘り起こした12代。伝統に革新を重ね、唐津焼の可能性を開拓した13代。果たして14代の作風とはどのようなものなのだろうか。「私の座右の銘は、映画監督の小津安二郎さんの『どうでもいいことは流行に従い、重要なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う』という格言です。12代でも13代でもない、自分らしさを表現することが私の作風です。」話を聞いてから14代の作品に目を移すと、言葉の意味が胸にすとんと落ちた。代表的な作品、『唐津白地黒搔落し葉文壷(からつしろちくろかきおとしはもんつぼ)』からは、伝統と革新が織り成す、真新しい調和を感じ取ることができる。

真剣な表情で作陶する14代 ■真剣な表情で作陶する14代
外側から叩いて模様をつける「叩き板」は、左から12代、13代、14代のもの ■外側から叩いて模様をつける「叩き板」は、左から12代、13代、14代のもの

しかしながら、自分らしさを追及することで失われる伝統があるのではないかという率直な疑問に14代は答えてくれた。「古唐津には多彩な技法があったからこそ、唐津焼はこの技法でなくてはならないというルールはありません。なんでもありなんです。先代が築いた素材や技術を踏襲することで伝統は守られ、自分のつくりたいものを素直な気持ちでつくっていくことが、新たな伝統に繋がっていくんです。」迷いのない14代の言葉に、これから「中里太郎右衛門」の名を引き継ぐ者たちへのメッセージが詰まっていた。

☆唐津のまちとともに――14代中里太郎右衛門が描く未来予想図

「唐津くんち」の7番曳山『飛龍』 ■「唐津くんち」の7番曳山『飛龍』    

唐津のまちとともに歴史を歩む中里家が描く未来予想図はどのようなものだろうか。その答えは、14代の活動の中に垣間見ることができた。「最近は自分の個展だけでなく、まちづくりを意識した活動に注力しています。例えば、数年前からはじめた『唐津やきもんまつり』は、唐津焼の窯元を集めて、その魅力を発信するイベントですが、10万人にご来場いただきました。また、過去にはパリのルーブル美術館で、佐賀の日本酒と唐津焼をテーマにしたイベントを行ったこともあります。」唐津神社の例大祭として全国的に有名な「唐津くんち」の7番曳山(ひきやま)『飛龍(ひりゅう)』の原型をつくったのが、9代中里重広であるという事実を知ったとき、14代の言葉に通じる中里家の想いを実感した。


タイムマシンで数百年先にタイムスリップできるのならば、中里家の様子を見てみたい。革新の連鎖が伝統を紡ぎ、唐津のまちとともに唐津焼の歴史のページを刻み続けていることだろう。

唐津藩の藩庁だった唐津城 ■唐津藩の藩庁だった唐津城