株式会社 島津興業

幕末に咲き、に甦る、薩摩切子という華

“日本の玄関”として活躍した、薩摩藩の歴史

島津斉彬公(尚古集成館蔵) ■島津斉彬公(尚古集成館蔵)
薩摩藩の歴史を語ってくださった安川常務取締役 ■薩摩藩の歴史を語ってくださった安川常務取締役

近代日本の礎を築くことに多大な貢献をした薩摩藩。名君として知られる島津斉彬公(島津家第28代当主、薩摩藩第11 代藩主)に象徴される進取の気風は、南九州の豊かさ、その地の利が育んだものだった。

「薩摩は江戸から見ると南方の端ですが、ヨーロッパや中国から見れば日本の玄関。重要な拠点でした。平安時代においては、日宋貿易を押えていたことが平家の財源でしたが、平家滅亡後の文治元年(1185年)には源頼朝がその九州ルートの大きな利権を、重用していた惟宗忠久に戦果恩賞として与えました。その忠久が島津家の祖であり、以来明治維新にいたるまで大名島津家はこの地を愛し、日本政治に影響を及ぼすほどの薩摩閥を形成していったのです」(株式会社 島津興業 常務取締役 観光事業本部長・安川周作さん)

斉彬公は、先進的な発想を持つ藩主として知られる。下級武士であった西郷隆盛を重用し、また、薩摩藩は西郷と共に「維新の三傑」の一人となった大久保利通も輩出。激動の時代を動かす、大きな役割を担ったのである。

世界遺産登録の名勝「せんがんえん・尚古集成館」の魅力

見る者を圧倒する壮大なスケールの仙巌園 ■見る者を圧倒する壮大なスケールの仙巌園
勝海舟がオランダ海軍士官カッティンディーケらを伴って会談したと言われる望嶽楼(ぼうがくろう) ■勝海舟がオランダ海軍士官カッティンディーケらを伴って会談したと言われる望嶽楼(ぼうがくろう)

島津家の壮大な世界観は、その私邸づくりにもあらわれている。1658年に第19代当主島津光久公によって、居城であった鶴丸城の別邸として造園されたのが「仙巌園」。素晴らしい景観と広大な庭園は、鹿児島を代表する観光名所として親しまれている。
「借景技法を用い、桜島を築山(つきやま)に、錦江湾を池に見立てた、スケール壮大な大名庭園です。 また、庭園内には『望嶽楼(ぼうがくろう)』という東屋(あずまや)があり、掲げている額や敷いてあるタイルから、中国文化の影響が見てとれます。斉彬と勝海舟がここで対面したというエピソードも残っています」(安川常務)

他藩が列強を脅威と見なしていた時代に、薩摩藩だけは広く海外を受容。斉彬公は「仙巌園」の隣接地の一部を使い、反射炉やガラス工場を建設するなどの近代化事業(集成館事業)を起こしていく。

現在は博物館として使われている尚古集成館(旧集成館機械工場) ■現在は博物館として使われている尚古集成館(旧集成館機械工場)

「“日本の玄関”として海外との交易、交流を続けてきたという歴史的背景があり、斉彬は『日本も諸外国と交易すべき』と考えていました。日本を植民地にしようと狙う西欧列強に対抗すべく、軍備を強化するとともに、諸外国と貿易を行って豊かな国づくりを目指すと将来を見据えていたのでしょう。外国と対等に交易できる国をつくろうと、数々のイノベーションを行ったのが集成館事業です」(安川常務)

洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、ガラス・ガス灯などの製造により、藩の富国強兵につとめた斉彬公。集成館事業の史跡は2015年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭事業」の構成遺産として世界遺産に登録され、大きな話題となっている。
稀代の名君が、時代の変化を追い越すほどの気迫で行ったそれらの偉業の中に、「薩摩切子」という煌めく花が咲いたのである。

大砲を鋳造するために鉄を溶かした西洋式の反射炉 大砲を鋳造するために鉄を溶かした西洋式の反射炉 ■大砲を鋳造するために鉄を溶かした西洋式の反射炉

江戸末期に燦然と輝いた、薩摩切子の物語

「斉彬は、薫陶を受けた25代当主重豪(しげひで)が西洋趣味であったため、その影響で西洋文化や自然科学に強い関心を持っていました。大砲や洋式帆船製造などの一方で、平和産業としての薩摩切子や薩摩焼の制作を推進。『価値のある産業で人々が豊かになることで、国が強くなる。人の和が国を守る』という、進んだ考えの持ち主だったのです」(安川常務)

息を飲むような輝きを放つ薩摩切子 ■息を飲むような輝きを放つ薩摩切子

薩摩藩は、27代当主斉(なり)興(おき)の代に薬瓶製造などのガラス加工をはじめた。そういった素地のあったところに斉彬公がさらに開発を進め、美術工芸品としての薩摩切子を誕生させたのである。

薩摩切子はヨーロッパのカットガラスに範を取り、色被(いろき)せの技法はボヘミアンガラスや中国清代の乾隆(けんりゅう)ガラスにならったもの。色被せとは、無色のガラスの上に色ガラスを被せる、江戸切子にはなかった技法。厚みのあるクリスタルガラスに繊細なカッティングがほどこされ、幻想的な色のグラデーションが映える華麗な薩摩切子は、大名間の贈答品としてもてはやされたという。中でも発色が難しく、高度な技術を要した紅(べに)ガラスは、斉彬公ご自慢の品だったとか。紅(べに)色はガラスに銅を混ぜて発色させるが、ガラスを溶解させる1300~1400℃の段階では色が出ず、460℃で約2時間置く段階で紅(あか)い色があらわれるとのこと。温度計が無かった時代にこのような発色を実現した職人の技にもロマンを感じる。

薩摩切子の真骨頂は色被せ。絶妙なチームワークで高温のガラスが2層となり、形作られていく。 薩摩切子の真骨頂は色被せ。絶妙なチームワークで高温のガラスが2層となり、形作られていく。 ■薩摩切子の真骨頂は色被せ。絶妙なチームワークで高温のガラスが2層となり、形作られていく。

幻の薩摩切子を現代に甦らせた匠の想い

斉彬公の逝去(1858年)で集成館事業は縮小し、続く薩英戦争(1863年)と西南戦争(1877年)で工場群が破壊され、薩摩切子の製造は1877年頃に途絶えてしまう。100余年後の1985年、幻となった伝統工芸品を現代に甦らせるべく、島津家はその復元に取り組んだ。

復元したぐい呑みを思い出し、自然と笑みがこぼれる中根さん ■復元したぐい呑みを思い出し、自然と笑みがこぼれる中根さん

復元事業に当初から関わる工芸家・中根櫻龜(おうき)(本名:中根総子)さんにお話を伺った。なお、櫻龜という雅号は、薩摩切子を復活させる立役者となった中根さんの功績が認められ、島津家32代当主・島津修久氏から命名されたものである。
「武蔵野美術短大を卒業後、ガラス工芸研究所在学中にご縁があって薩摩切子復興の技術者募集のお話をいただき、同研究所から推薦を受けて着任しました。100年以上途絶えていたので、当時は参考となる物は限られた現存品と文献しかなく、かなり戸惑いましたが、歴史的な復興に最初から携われることは有意義と感じ、多くの方に支えていただきながら研究を進め、薩摩切子の復元に成功しました。初めて思い通りの仕上がりのぐい呑が出来た時は本当に嬉しかったですね」

当たりから、カット、磨きにいたるまで、専任のプロがそれぞれ丁寧に仕上げる。 ■当たりから、カット、磨きにいたるまで、専任のプロがそれぞれ丁寧に仕上げる。

独特の厚みのある色被せガラスにカットを入れると、そこに「ぼかし」と呼ばれる色のグラデーションが生まれ、さらに籠目紋、亀甲紋など数々の繊細なカットがほどこされる。その組み合わせの妙は比類なく、光を受けて輝く姿は息を飲む美しさ。
「ぼかしは、半分は透明にして半分は色を残すことも出来れば、色の厚みのある部分でこまかく濃淡をつけることも出来ます。削り方によってグラデーションの出し方を自在にできるのは、2~5ミリの色の厚みをもつガラス地の薩摩切子ならではですね。よく江戸切子との違いを尋ねられますが、江戸切子の魅力は軽やかですっきりとした方向性。一方、薩摩切子は重厚感が持ち味なので、加工では高い装飾性を意識しています」

クリスタルのカットガラスである薩摩切子は高価なものの、大切に使うと何十年も使い続けられる物。「子に、孫に」と、世代を超えて受け継いで行きたいと感じさせる風格が漂う逸品だ。

復元20周年を記念して開発された「島津紫」の逸品 ■復元20周年を記念して開発された「島津紫」の逸品
2001年に開発された“二色被せ”の作品 ■2001年に開発された“二色被せ”の作品

たゆまぬ創造と努力により、歴史の新たなページが重ねられていく薩摩切子。その美しさはまさに「食卓を飾る宝石」――。
豊潤な煌めきの中には、激動の時代のロマン、そして、“薩摩”の人々の熱き想いが秘められている。

いつまでも見ていたくなる色鮮やかな薩摩切子 ■いつまでも見ていたくなる色鮮やかな薩摩切子
仙巌園が提供する「ななつ星」の夕食にも、薩摩切子を使用 ■仙巌園が提供する「ななつ星」の夕食にも、薩摩切子を使用